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記事: 「つながりながら、道を拓く」 岩澤 玉青

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「つながりながら、道を拓く」 岩澤 玉青

今回は、リンパ浮腫ネットワークジャパン(リンネット)の代表として、リンパ浮腫の患者支援や医療環境改善などに積極的に取り組まれている岩澤玉青さんをお迎えしました。
人生で大きな夢を二つ叶え、残る一つを追い求める途中で乳がんが発覚。頑張ってももがいてもたどり着けない夢があるという現実を突きつけられると同時に、リンパ浮腫との孤独な闘いを強いられた岩澤さんですが、そんな運命を受け入れ、明るくひた向きに歩いてきた道は、素敵な出会いであふれています。
がん、リンパ浮腫、不妊治療の経験者としての苦労やあきらめないコツ、リンネットにかける思いについても伺いました。

enStylers:リンパ浮腫とともに、自分らしくstyleをもって生きるひとたち

 

リンパ浮腫ネットワークジャパン:

https://lymnet.jp/

 

 

不妊治療中に見つかった「がん」

encyclo Style 編集部(以下、編集部)

まず、がんが見つかった経緯から教えていただけますか。

 

岩澤玉青(以下、岩澤)

発症したのは41歳のとき、乳がんのセルフチェックをしていて、脇の下に固いものがあるのに気づきました。それまでも、年1回は個人的に乳がん検診を受けていましたし、1ヶ月に1回はセルフチェックをするようにしていたので、そのときは「まさか」と思いました。 

夫に相談すると、「明日すぐに病院に行ったほうがいい」というので、半信半疑の気持ちで受診しました。検査が進むにつれ、最初は「定期検診にはまだ早いね」と笑っていた先生の顔から笑顔が消えていくのが分かりました。

「生検の結果が出たから」と呼び出されたのは休診日の日曜日。もう悪い予感しかしませんでした。結果は、「悪性」。「えっ?悪性って、がんってこと!?」。

一瞬、頭がフリーズした後、私の口から飛び出した言葉は、「先生!がんになっても子どもを産めますか?」でした。 

 

編集部

がんを告知される瞬間はいろいろな感情が入り混じると思いますが、岩澤さんの最大の心配事は、子どもを産めるかどうかだったのですね。

 

岩澤

子どもをもつことは、昔からの夢のひとつでした。また、夫が旧家の長男ということもあり、子どもを産むことへの使命感みたいなものもありました。 

がんが見つかったとき、私は不妊治療の真っ最中でした。乳がんの治療は、長い人で10年以上かかると言われているため、妊娠の時期を逃してしまうと思ったのです。 

実際、先生も「年齢的なことや抗がん剤の影響を考慮すると、子どもを産むことは難しいだろう」とおっしゃいました。それでも私はあきらめることができず、がん治療と不妊治療の両方ができる病院を希望して、紹介していただきました。 

 

 

3つの夢を叶えるために

編集部

他にも昔から叶えたかった夢があったのでしょうか?

 

岩澤

私には、幼いころから3つの夢がありました。1つめは「結婚して子どもをもち、幸せな家庭をつくること」、2つめは「世界を股にかける仕事をすること」、そして、3つめが「アメリカで生活すること」でした。この時点で、すでに2つめと3つめの夢は叶っていました。大手電機メーカーの海外営業として世界を飛び回り、ニューヨークで暮らす機会にも恵まれたのです。

 

編集部

2つの夢はどうやって叶えられたのですか?

 

岩澤

若いころから、海外で暮らすことに興味がありました。20代前半でアメリカ人の友人から勧められた「7つの習慣」を実践するという英語のセミナーに参加したことがきっかけで、自分の価値観が確立されていきました。日頃から習慣を意識することで、私は自ずと今もっとも必要なことを考え、より高い目標を掲げてチャレンジし続けるようになり、その結果、2つの大きな夢を叶えることができました。

 

 

常にそばに置いて何度も読み返している「7つの習慣」。 
手帳に骨子を貼って、いつも大切に持ち歩いていました。

 

編集部

英語も得意だったのですか?

 

岩澤

それが、高校2年生まで全然できなかったんです(笑)。高校時代の私は、数学が得意で、大学は理系に進んで、将来はNASAで働けたらいいな-。そんな大きな夢を描いていました。 

そんな私に転機が訪れたのは高2の夏、たまたま家庭教師の先生に紹介され、国籍も年代も違う人たちが英語だけで3泊4日をともに過ごすというキャンプに参加したときです。何も喋れず、最初は一人ポツンと寂しい思いをしていたのですが、みんなで一緒に川遊びをしたり、歌を歌ったりするうちに、とても楽しくなってきて-。

キャンプから帰った私は、「次のキャンプまでにもっと英語を喋れるようになりたい」「もっとみんなと仲良くなりたい」と、必死に勉強を頑張りました。私の中では、「英語ができれば世界は広がる!」と確信したことがモチベーションになっていました。 

 

 

キャンプにて。(右)
将来の夢に繋がる大きなきっかけになりました。

 

編集部

「みんなともっと話したい」という気持ちが、英語の上達を早めたのですね。昔から、積極的な性格だったのでしょうか。

 

岩澤

小学2年生くらいまでは、恥ずかしがり屋で先生に当てられても小声でボソボソ答えているような大人しい子どもでした。でも、3年生のときに出会った先生が、私の明るいキャラクターを引き出してくれ、それ以降は、地域のソフトボールやバトントワリングの活動などにも参加して、アクティブな少女時代を過ごしました。

 

 

年齢や国籍も様々なみんなと打ち解けて、「また参加したい、もっと話したい!」という気持ちに。(右から2番目)

 

編集部

学校や家庭教師の先生との素敵な出会いが、幼い日の岩澤さんを刺激し、夢へと後押ししてくれたのですね。最後の1つの夢についても教えていただけますか。

 

岩澤

結婚後、仕事で体調を崩したこともあり、残る1つの夢を叶えるために、会社を辞め、本格的に不妊治療に取り組むようになりました。子どもを育てながらでも無理なく続けられるようにと、得意の英語を活かして、海外のドラマや番組に字幕をつける映像翻訳という仕事を始め、フリーランスとしてようやく仕事も軌道に乗り始めた矢先、がんが見つかったのです。

 

 

私にとっての「生きるための選択」

編集部

どうしても子どもが欲しい岩澤さんに対し、ご家族の反応はいかがでしたか。

 

岩澤

夫は父親をがんで亡くしていることもあり、私ががんになったときも、上手にサポートしてくれました。夫も義母も「子どもより、自分の命を優先してほしい」と言ってくれました。でも、私は、すぐにはそう思えませんでした。夫との子どもを持てないかもしれない、義母に孫の顔を見せられないかもしれない-。そんなことは受け入れられなくて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

 

編集部

難しい選択だったと思いますが、最終的にどのような決断をされたのですか。

 

岩澤

今ここであきらめたら、一生後悔する。私はこれまでも、夢や希望が叶うのを静かに待っている「静」の人ではなく、自ら夢をつかみに行く「動」の人でした。やらないで後悔するくらいなら、やって後悔したい。泣きながら家族を説得して、妊孕性(妊娠する力)温存の治療を認めてもらいました。

 

編集部

どのように治療を進められたのですか。

 

岩澤

当時は まだ事例も少ない「卵巣組織凍結」の臨床研究を行っている病院に運よく紹介していただきました。がん治療の主治医、生殖治療の主治医、それぞれの先生は、これが「私の生きるための選択」であることを理解してくださり、私の意思を確認しながら、治療を進めてくださいました。おかげで、がん治療開始まで4週間しかありませんでしたが、無事、希望通りの治療に進むことができました。

 

 

泣いている暇なんかない

編集部

「やらないで後悔するより、やって後悔したい」というお話もありましたが、まだエビデンスも少ない先進的な治療を受けることに迷いはありませんでしたか。

 

岩澤

迷いはありませんでしたが、疑問は何十個もありました。「がん治療後の不妊治療の成功率は?」「抗がん剤の胎児への影響は?」「不妊治療に使う薬は、がんに影響を及ぼさない?」等々-。先生や看護師さん、ソーシャルワーカーさんに聞いても、答えはなかなか見つかりませんでした。でも、ふと気づいたのです。こうして悩んでいるのも、子どもを産める可能性が残っているから。今、ここにいることが奇跡なのだから、やってみよう。泣いている暇なんかない、と。

 

編集部

がん治療と不妊治療は、どのように両立されたのですか。

 

岩澤

私のがんは、治療の選択肢が多い代わりに、治療期間が長い厄介なタイプでした。治療は10年以上かかるといわれますが、10年後には私は50歳を過ぎてしまいます。

いつのタイミングでがん治療と不妊治療を切り替えるか、不妊治療への影響も考えながら、どうがん治療を進めるか等々、新たな不安と疑問が次々と頭をよぎりました。

両方の先生ともよく相談して、治療方針を決めていきました。私の場合、年齢の関係で不妊治療ができる期限が決まっていたので、がんの治療中、できるだけ体調を整え、治療が遅れることで不妊治療に影響が出ないように心がけていました。

 

 

患者もチームの一員として

編集部

お話をうかがっていると、先生方と大変良い関係が築けているように思います。

 

岩澤

私は運が良いのか、大事なとき、本当にいい出会いに恵まれるんです(笑)。誰一人欠けても、私の望む治療はできなかったと思います。そういう意味でも、私の治療のチーム医療に関わってくださった方々には本当に感謝しています。

 

編集部

岩澤さんにとって、「チーム医療」はどんなイメージですか。

 

岩澤

以前は、医療者の方々がつくる円の中心に、患者がいるというイメージを持っていました。でも、それだと、患者が一人でポツンと寂しい感じがしていました。医療者が決めた治療方針を伝えられるだけのような…。でも、あるとき、患者も同じ円に加わって一緒に手をつないでもいいんだと気づいたのです。自分の希望を伝えて、積極的に質問して、治療のことを一緒に考えることができる。そう気づいてからは、とても楽になって、自分の思いを積極的にお伝えしましたし、先生方は私の価値観を大切にしてくださり、希望に寄り添ってくださいました。

 

編集部

そうした信頼は、お互いにとって大切なことですね。ワンチームで治療に取り組まれた時間を振り返って、今どのようなお気持ちですか。

 

岩澤

不妊治療を行った期間は2年8カ月でしたが、私にとってそれは、とても幸せでかけがえのない時間でした。先生方はじめ、多くの方のご協力で、希望を追い求めることができたのです。 

そして、子どもを持てるかもしれないという希望が、がんに立ち向かう力、生きるモチベーションになっていたことは確かです。

 

 

リンパ浮腫は突然に…

編集部

手術の後遺症として、リンパ浮腫にもかなり苦労されたようですね。リンパ浮腫はいつ発症されたのですか。

 

岩澤

乳がんの手術後まもなくです。病院で習ったセルフマッサージを退院後も毎日続けていたのですが、1~2週間すると、左右の腕の太さが目に見えて変わってきました。どんなふうにマッサージをしていたか看護師さんに聞かれ、実演したところ、「そんなゴリゴリしてはダメ!」と驚かれてしまったので、うまくケアができていなかったのかもしれません。 

そのときは、主治医に弾性スリーブやグローブの指示書をもらい、とりあえず、一番よく使われているというスリーブを購入しました。その後も、症状は完全に良くなることはありませんでしたが、悪化したときだけスリーブを着けるという感じで、なんとかしのいでいました。 

 

編集部

ですが、その後、悪化してしまったのですね。

 

岩澤

手術から2年半ほど過ぎたある日、熱が出て、急に腕がむくんできたのです。いま思えば、無謀な行動だったのですが、その日は体調が悪かったにもかかわらず、乳がん患者の集まりに参加していました。たまたまそこに居合わせた主治医が、すぐ翌日に診てくれることになりました。リンパ浮腫と診断され、院内に新設されたリンパ浮腫外来に予約を入れて帰宅したのですが、症状は日を追うごとに悪化。高熱が出て、腕はパンパンに腫れ、手のひらや指まで膨れ上がって、関節は曲がらない状態になっていきました。

「予約の日までとても待っていられない」と、インターネットや知人を頼りにリンパ浮腫専門施設を探したところ、診ていただけそうなクリニックを見つけ、すぐに行きました。

 

編集部

クリニックではどのような治療をされたのですか。

 

岩澤

急性の炎症を起こしている「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」と診断され、着用していたスリーブは、すぐ脱ぐように言われました。炎症が起きている時は、スリーブを着けないほうが良いことなど、この時はまだよく分かっていませんでした。 

抗生物質と点滴を使い、2週間ほど安静にしていれば症状はよくなるといわれましたが、以前見たことのあるひどく腫れあがったリンパ浮腫の写真が目に浮かび、自分もそうなってしまうかもしれないと不安でたまりませんでした。 

 

編集部

リンパ浮腫は、不妊治療にも影響したのではないですか。

 

岩澤

翌年から不妊治療を再開しようとしていたタイミングだったので、リンパ浮腫という新たな悩みの種が増えたことは、子どもが産めなくなるのと同じくらいショックで、大きな恐怖でもありました。蜂窩織炎になったら不妊治療も一時中断することになるのだろうか、腫れた手で子どもは抱けるのだろうか、パソコンを使う翻訳の仕事はできるのだろうか-。様々な不安にいつも付きまとわれていました。

 

編集部

リンパ浮腫になったことで、様々な不安が発生してしまったわけですね…。

 

岩澤

不安もそうですが、蜂窩織炎になってからというもの、重さや痛み、しびれに悩まされるようになりました。健康な人は、腕が体についていることを意識することなどないと思うのですが、私は、四六時中、腕が重い、腕の調子が悪いと思いながら生活するようになってしまったのです。

 

 

偶然の出会いから手術を決断

編集部

岩澤さんはリンパ浮腫の手術も経験されているそうですね。

 

岩澤

治療していた病院で、乳がん患者会の活動をしていたのですが、その集まりにリンパ浮腫が専門の形成外科の先生が訪ねて来られたことがあります。その先生は私の腕を見るなり、「あなたは手術の適応だと思うんだけど…」と声をかけてくださいました。いきなり適応といわれても、また手術を受けることは、私の中ではかなり抵抗がありました。がんの手術、不妊治療のための卵巣の手術も受けたばかりです。しかし、他の先生や看護師さんたちに聞いてみると、皆、手術を受けることに賛成。「それなら…」と、思い切って受けることにしたのです。

 

編集部

手術を受けてみていかがでしたか。辛い症状は改善したのでしょうか。

 

岩澤

先生方がおっしゃった通り、私には効果がありました。コロコロだった手のひらや指先の腫れが、すっと引いたのです。蜂窩織炎になって以降、常に私を悩ませていた重さやしびれも嘘のように改善しました。症状が軽減し、気分まで軽くなったように感じました。

 

編集部

手術以降、リンパ浮腫の症状は落ち着いているのでしょうか。

 

岩澤

症状は落ち着いていますが、スリーブとセルフケアは続けています。といっても、マッサージは苦手なので、お風呂に入ったついでに短時間するくらいですが…。 

スリーブは、本当に自分に合うものがなかなか見つからず、十数本試してみて、ようやく合うものが見つかりました。手首までのタイプ、ミトンタイプ、また、上部の内側にシリコンがついていて、ずり下がってこないものや、夜にできる簡易的なものなど、様々な種類があるので、そのときどきの状況や症状に応じて、使い分けています。 

その後、スリーブを外して生活することを目指し、不妊治療が終わったタイミングで2回目の手術を受けました。

 

 

人生をあきらめない

編集部

リンパ浮腫ともうまく付き合えるようになってきたようですが、日ごろ心掛けていることがあれば教えてください。

 

岩澤

私が大切にしていることは、リンパ浮腫になっても人生をあきらめないこと、やりたいことには積極的にトライすることです。リンパ浮腫になると、「これもダメ」「あれもダメ」と言われがちですが、それをすべて完ぺきに守っていると、人生を楽しめませんよね(笑)。 

例えば、重いお鍋もゆっくりなら持ち上げることができる、パソコン作業も腕の位置を工夫して休憩をとりながら〇分くらいまでならできる、というように、トライ&エラーを繰り返しながら、自分の出来る範囲を確認していくのです。 

私は温泉に入ると腕が必ず腫れてしまうのですが、入浴後にすぐバンテージを巻くようにすれば、腫れが引きます。対処法を身につけて、できることを増やしていったほうが、人生は絶対に楽しいと思います。 

 

編集部

チャレンジといえば、岩澤さんはトライアスロンにも出場されたそうですね

 

岩澤

トライアスロンといっても、3人1組で参加するプチトライアスロンです。クラゲに刺されるのが怖いので、水着は長袖、手にはグローブもはめ、泳ぎは私だけ腕に負担の少ない平泳ぎ-。それでも、みんなと一緒にゴールしたときの気持ちは最高で、なんともいえない思いがこみ上げてきました。リンパ浮腫になってもあきらめなくていい、私はきっとこれからもリンパ浮腫と歩んでいける、初めてそう思えた瞬間でした。

 

 

ゴールの瞬間。最高の達成感でした!(左)

 

編集部

そこにたどり着くまでには、人知れずご苦労も多かったと思います。

 

岩澤

がんを発症してから、同じ乳がんの患者さんと一緒にエクササイズやウォーキングを楽しんでいた時期があります。みんなで健康に向かって、ともに進んでいけることがとても嬉しかったのです。ですが、リンパ浮腫を発症し、自分だけがいろいろなことを諦めなければならない、と先の見えない暗闇にいるような気分になりました。乳がん患者仲間からも取り残されているような孤独感や焦燥感で、「こんなはずじゃない!」とふさいだこともありました。でも、そんなときも、「そんな自分も自分」と受け入れることで、自らを励ましてきました。

 

 

一緒に参加したメンバーと。腕に傷がつかないように、長袖・グローブのウェアで挑戦しました。(左)

 

 

悲しさ、悔しさを原動力に

編集部

がんの仲間はいても、リンパ浮腫の悩みを共有できる仲間はいなかったということでしょうか。リンパ浮腫になって初めて気づいた孤独や疑問こそ、リンネットの原点になっているように思います。

 

岩澤

その通りです。リンパ浮腫は、治療施設や情報が圧倒的に少なく、同じ病気の仲間にもなかなか出会えず、いつも、何が正しい情報なのか、誰に聞けばよいのか、手探りの状態でした。これは自分だけに起きていることなのか、リンパ浮腫の人はみんなそうなのか、判断するすべもなかったのです。 

さらに、がんの後遺症にもかかわらず、健康保険が使えないということにも納得がいきませんでした。まるで「社会に認められていない病気」といわれているようで悲しい気持ちになったのです。 

こんな病気を抱えた人たちにとって、拠り所になる情報があれば、気軽に相談できる仲間がいれば、どんなに心強いだろう-。リンネットは、私の経験した孤独や疑問、様々な悲しさ、悔しさなどが原動力になっているといってもいいかもしれません。 

 

編集部

リンネットの立ち上げには、主治医の先生も背中を押してくれたようですね。

 

岩澤

私は、医療の状況を変えられるのは、医療者だけだと思っていました。でも、リンパ浮腫の主治医の先生から、アメリカにはリンパ浮腫の大きな患者団体があることを教えてもらいました。一連の治療の中で、患者だからといって、待っている必要はないんだ。ここでもチーム医療の一員として、一緒に考えていけばいいんだ。患者の側からも医療状況を変えられると気づいた私は、不妊治療の終了を機に、リンネットを立ち上げました。リンネットの活動は、私のライフワークとして、これからも長く続けていきたいと思っています。 

 

編集部

まさに「ライフワーク」という言葉がぴったりですね。

 

岩澤

実は、「7つの習慣」をベースに大切にしてきた価値の中で、1つだけそれまで縁のなかったものがありました。それが、社会貢献活動でした。

3つめの夢を叶えて、育児が落ち着いたら仕事に戻りたいと思っていました。でも、それは叶わず、リンパ浮腫になったことで、元の仕事にも戻れませんでした。そんなとき、自分の経験をもとに、リンパ浮腫の現状を変えていくことが、いまの自分に与えられた使命だと強く感じられたのです。

リンネットは、ネットワーク=つながりを大切に、「患者もチームの一員になって、みんなでリンパ浮腫の状況を良くすること」を大切にしています。

誰かがすでに取り組んでいることではなく、まだこれからという領域だからこそ貢献できたらと思っています。ずっと営業の仕事をしていたので、何もないところに足がかりをつくるのは、自分に向いているのかもしれません(笑)。

 

編集部

最後に、ご自身のがん、リンパ浮腫の経験を通して伝えたいメッセージがあればお願いします。

 

岩澤

幼いころは「努力は必ず報われる」と信じていました。でも、私が子どもを持てなかったように、人生には努力してもどうにもならないこともあります。そうした経験を通して、私が言えることがあるならば、「あきらめても、失っても、希望はまた必ず生まれてくる」ということです。どんなに泣いても、いつかは泣き疲れて泣き止みます。倒れてしまっても、いつかは身体を起こして、再び立ち上がります。「希望はまた必ず生まれてくる」-。私もこの言葉を胸に、これからも進んでいきたいと思います。 

 

 

Editor‘s Comment

大きな夢を描き、自分のできる最善のアクションを起こして、道を切り拓いていく。ブレない軸をもち、常に自ら行動されている岩澤さんですが、「いい出会いやご縁に恵まれているんです」と繰り返しおっしゃっていたのが印象的でした。 
人とのつながりや、一緒に進んでいくことを心から大切にされているからこそ、ネットワークでリンパ浮腫の課題に取り組む「リンネット」が誕生したのだと感じました。
気さくで温かい雰囲気で周囲を自然と魅了する岩澤さんから、手を取り合って進むことのパワーに改めて気づかされました。encycloStyleともつながってくださり、ありがとうございました。(編集部)

 

 

<文:Emily Nagaoka>

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