「人生は自分で切り拓いていく 」 阿南 里恵


              「人生は自分で切り拓いていく 」 阿南 里恵

今回は、子宮頸がん罹患後も、起業や国家資格取得、そしてイタリアへの語学留学と、さまざまなことに挑戦されている阿南里恵さんをお招きしました。
仕事やおしゃれを楽しみ、充実した毎日を過ごしていた矢先に、子宮頸がんを発症した阿南さん。仕事に生きがいを感じていたにも関わらず、手術による体力低下やリンパ浮腫の影響で、全力を出して働けなくなりました。
阿南さんは、がんの後遺症に対する周囲の理解にも悩みましたが、前向きに自分の居場所を模索してきました。留学先のイタリアでは、多様性を認める文化に影響を受けたといいます。相互理解において発展途上にある日本で、自分らしく輝ける場所を探し続けている阿南さんに、今日までのお話を伺いました。

enStylers:リンパ浮腫とともに、自分らしくstyleをもって生きるひとたち

 

やりがいを感じられる仕事との出会いと子宮頸がんの発症

encyclo Style 編集部(以下、編集部)

子宮頸がんを発症された時は、どんな生活を送られていたのでしょうか? 

 

阿南里恵(以下、阿南) 

ベンチャーの不動産会社に転職したばかりの時期でした。 

新卒入社した大企業では、まず新入社員は裏方の仕事を任されます。常にやりがいや成長を感じていたい私は、裏方の仕事をしながら「会社に本当に必要とされているのかな」と悩んでいました。そんなとき出会ったのが、マンションのチラシ配りのアルバイトだったんです。 

ある日、チラシを配っていたら、「君たちの仕事はチラシを配ることじゃない。お客様をモデルルームにお連れすることだ」と、社員さんから言われて。それから私は、オリジナルの予約表を作って、道行く人にチラシを配りながら「モデルルームに来てみませんか?何時なら来られますか?」と声をかけ、積極的にアポを取るようにしたんです。 

そうしたらモデルルームの来場者が増えて、私自身もすごく評価いただいて。はじめて仕事の楽しさを感じた経験でしたね。 

休日の気分転換として始めたアルバイトでしたが、そのまま不動産会社に転職し、マンション営業の仕事を始めたら、入社1ヶ月で複数件契約が決まりました。周囲からも期待され、終電で帰宅しても「すぐ出社したい!」と思うほど、仕事にのめり込んでいた時期でしたね。 

 

 

がんが発覚する直前に職場の上司と。
不動産会社の仕事に夢中になっていた時期でした。

 

編集部

がんと分かったときは、どんな気持ちでしたか? 

 

阿南

それまで大病をしたことが無かったので、「治らないかもしれない」なんてピンとこなくて。医師からは、当時住んでいた東京ではなく、地元・大阪で治療するよう勧められましたが、わざわざ帰省すべき理由も分かりませんでした。  

でも、検査結果が出るまでの1ヶ月でどんどん体調が悪化して、ようやく「悪い病気なんだ」と実感が湧いてきて。その後、抗がん剤治療で全く動けなくなり、髪が抜け、自分の状況を受け入れざるを得なくなりました。 

 

編集部

著書では、子宮摘出手術の前日、治療を受けていた大阪から東京のアパートに一人で帰ったと書かれていました。どういった気持ちから東京に帰られたのでしょうか? 

 

阿南

がんになる前は、「20代は仕事をして、30代は子育てをする」と思っていました。でも、子宮がなくなったら、思い描いていた人生は送れない。だから、術後の人生をどう歩むか、答えを出してから手術に挑みたかったんです。 

そうしたら、母から「とにかく生きなさい。子どもが産めなくなっても、できることはたくさんある」とメールが来て。 

母は昔から厳しくて、愛情表現も苦手です。私は、中学生の頃から母に反発して、ずっと距離を置いていました。そんな私に、母がこんな言葉をかけてくれるなんて…いろいろな思いが溢れて、アパートで一人泣きました。結局、術後の生き方の答えは出ませんでしたが、母の言葉で「とにかく生きよう」と思えました。 

 

編集部

大阪での術後は、どのような生活を送られたのでしょうか?  

 

阿南

大阪にいると、私への心配から、母がいつも泣いていたんです。これ以上、心配をかけたくないと思い、術後一人で東京に戻りました。 

東京では、不動産会社への復職も試みたのですが、術後の体力低下で営業には戻れなくて。事務への異動を打診されましたが、期待を裏切ってしまう気がして退職したんです。その後、アルバイトをしたのですが、結局生活できなくなり大阪に帰りました。 

大阪では、治療と両立しながらパソコンスクールで働き、再び上京して保育園運営会社などで働き、2008年には音楽やオートバイのイベント会社を起業しました。ただ、術後発症したリンパ浮腫のせいで、疲れると蜂窩織炎(ほうかしきえん)になり高熱に悩まされるようになりました。休めば治ったんですが、後遺症への周囲の理解に悩んだり、症状が出るのを恐れて全力を出せないもどかしさを感じることもありましたね。 

 

 

起業した会社でやっていたオートバイのイベント。
学生時代から好きだったバイクは治療後も楽しんでいました。(右から2番目)

 

編集部

治療をしながら、そしてリンパ浮腫の不安を抱えたままの転職や起業は、体力的・精神的に大変だったと思います。それでも前向きに活動する意欲は、どこから湧いていたのでしょうか? 

 

阿南

かつて勤めた不動産会社は、「社員同士の熱い絆で仕事を成功させる」という社風でした。「そんな会社で再び働きたい、そんな組織を自分が作りたい」という目標があったので、前向きに自分の居場所を模索できたんだと思います。 

 

 

大切な居場所だった不動産会社の仲間と。
抗がん剤治療で脱毛している時期も帽子をかぶって東京まで会いに行っていました。

 

 

同僚の死を乗り越えて見つけた、人のためにできること

編集部

がんの経過観察期間が終わり、講演活動を始められたと伺いました。きっかけは何だったのでしょうか? 

 

阿南

保育園運営会社の同僚が、突然がんで亡くなってしまって。人望のある素晴らしい人だったので、「なぜ彼女が亡くなってしまって、自分は生きているんだろう?」と、すごく悩みました。悩み抜いて「いつ死ぬか分からないからこそ、いま人のためにできることをしよう」と思ったんです。私が体験談を話せば、子宮頸がんを予防する人が増えるのではと思い、講演活動を始めました。 

 

 

講演活動の様子。
中学校や高校で、がんの体験談を伝える「いのちの授業」にも力を入れていました。

 

編集部

講演活動では、妊よう性(妊娠するための力のこと)温存についても積極的に発信されていたんですね。 

 

阿南

そうですね。私自身も、卵子凍結や体外受精、海外での代理出産を視野に入れていたのですが、あるとき医師から「出産は母体にとってリスクが大きいことだ」と聞いて。子どもを持つ他の方法を考えたとき、何らかの理由で親に育ててもらえない子どもと家族になる「特別養子縁組」の方が、私に合うのではと思いました。 

ただ、特別養子縁組のためにはパートナーが必要になります。3年ほど婚活もしましたが、お互い結婚前提で会うので、子どもが産めないことを打ち明けるタイミングが難しくて。特別養子縁組の知識がない人も多く、まずは偏見を取り除き、理解してもらうところから始めなければならない。日本でパートナーを得て、特別養子縁組を成立させるのはハードルが高いと実感しました。 

 

編集部

今も講演活動を続けていらっしゃるのでしょうか?  

 

阿南

今は講演活動はお休みしています。そもそも、自ら望んでがんになった訳ではない以上、「がん患者の阿南里恵」としてのキャリアは自分で選んだ道ではありません。がんになって10年経ったころ、自分で選んだ道で「阿南里恵」としてのキャリアを積みたいと思い、再び生き方を模索し始めました。 

 

 

がん患者としてではない、阿南里恵としてのキャリアを

編集部

そこからどのようなキャリアを積まれたのでしょうか? 

 

阿南

友人にキャリア相談しようとカフェで待ち合わせしたとき、友人から「いつもお店のインテリアを見てるね」と言われたんです。思い起こせば、確かに昔からインテリアでお店を選んでいるなと思って。その時に「私、インテリアが好きなんだ」と気付きました。  

猛勉強してインテリアコーディネーターの資格を取ったんですが、その頃、父が肺がんを発症して。「少しでも父のそばにいよう」と、大阪で建設会社の営業の仕事に就きました。1年ほど経って父は旅立ったのですが、最後に一緒に過ごした時間は「父に愛されていたんだ」と心から感じた、かけがえのない時間になりました。 

葬儀が終わり、父が遺してくれたお金の使い道を考えたとき、「お父さんは、私が自分らしく生きるために使うことを望んでくれるはず」と思い、イタリアへの語学留学を決めました。 

 

編集部

なぜイタリアだったのでしょうか? 

 

阿南

イタリアの家具ブランド「カッシーナ」のファンなんです。素敵な家具が生まれるイタリアなら、目にするものが日本と違うんじゃないかと思いました。 

 

 

イタリアの語学学校にて。
多様な人がいてあたりまえの環境はとても新鮮でした。(前列右)

 

編集部

長距離のフライトや、知らない土地での生活は、リンパ浮腫悪化の心配もあったと思います。不安要素があるなか、潔く決断される姿に憧れますが、昔から行動力があったのでしょうか? 

 

阿南

「いつ死ぬか分からない」と常に思っているので、悩むのは時間がもったいないんです。思ったら即行動します。 

リンパ浮腫については、術後9年目に階段から落ちてすねを強打したのを境に、急激に悪化して。むくみが取れなくなり、履ける靴やパンツが無くなりました。大阪の建設会社への入社前に何とかしなければと思い、通院していた婦人科に診てもらうと、すぐに形成外科を紹介され、外科手術を受けることになりました。 

歩くのがやっとの状態まで悪化していたんですが、手術を受けた途端、熱が出なくなり辛さが和らぎました。だから、長距離移動や海外生活も、そこまで不安ではありませんでした。その後も数回手術を受けています。 

 

編集部

リンパ浮腫は、阿南さんが生活するうえでどんな影響がありましたか。 

 

阿南

リンパ浮腫は、社会復帰に大きく影響しました。まず、仕事の選択肢がかなり狭まりましたね。立ちっぱなしも座りっぱなしも難しい。 

あと、リンパ浮腫への不安から全力で頑張れないのは、すごく歯がゆかったです。普段元気なのに、忙しくなると突然熱が出る事情も、周りの人になかなか理解してもらえず、悲しい思いもしました。 

以前、直属の上司だけでなく、周りの社員にも事情を知ってもらった方が良いと思い、オフィスにいる全員にメールを送ったことがあったんです。ほとんどの方から励ましの声をいただきましたが、なかには「いつも元気なのに、本当に病気なの?」という声もありました。 

 

編集部

理解ある職場には、何が必要だと思いますか? 

 

阿南

働く人の心のゆとりだと思います。個々人の事情を受け止めるには、心にゆとりがないと難しい。でも、働く人だけが問題なのではなく、心にゆとりが持てない働き方をさせる組織のあり方も問題だと思います。 

 

 

イタリアの多様性に触れ、自由に生きる

編集部

リンパ浮腫と付き合っていくために、心がけていることはありますか。 

 

阿南

リンパ浮腫を気にしないといけない環境に自分を置かないようにしています。制服のない職場を選ぶとか。 

あとは、イタリアでの生活を経験して、以前ほどいろいろなことを気にしなくなりました。イタリアでは、いろんな人種や体型の人がいるのが当たり前なんです。日本人は、体型もだいたい同じ。生き方も「こうしなきゃ」、「こうあるべき」と思いがちですが、実はそれって勝手に作った思い込みなんですよね。イタリアの多様性に触れて、「自分の人生なんだから、自己責任で自由に生きていけばいい」と思えるようになりました。 

イタリアで結婚しましたが、彼は本当に優しい人で。出会ってすぐ、がんのことを打ち明けたんですが、まず私の体のことを心配してくれたんです。日本ではまず一言目に「体外受精になるのか…」と言う男性が多かったので、この優しさには驚きました。「特別養子縁組で子どもが欲しい」と話しても、偏見なく理解してくれます。彼と出会って、一緒に生きていくには優しさが何より大事だと再確認しました。 

 

 

イタリアで挙げた結婚式。
彼はとにかく優しくて、私にとって心の癒しです。

 

編集部

ご結婚されて、今はどのような生活をされていますか? 

 

阿南

イタリアの飲食店で働く予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大によるロックダウンで仕事ができなくなってしまって。とりあえず私の仕事は見つかるかもと思い、一昨年夫婦で日本に帰国しました。今は、京都の会社でツアー事業の立ち上げに加わっています。 

 

編集部

さまざまな業界への転職や留学など、いろいろなご経験をされていますが、仕事選びや生きるうえでの信念を教えてください。  

 

阿南

大事にしているのは、「自分の人生は、自分で切り拓いていくこと」です。会社は、社員の人生に責任を取ってくれません。だからこそ、会社に恩があったとしても、常に自分が輝ける場所を求めて、必要なときには決断する勇気が必要だと思います。 

今後は、「こうあるべき」という概念に縛られない環境に身を置きたいですね。これからも、高いモチベーションを持ち続けながら、常にチャレンジしていきたいです。 

 

 

Editor‘s Comment

「自由」。「こうありたい」と思ったことを次々と実現していく阿南さんのお話を聞いているうちに、ふと「自由」という言葉が頭に浮かびました。そしてすぐに、「自由」でいることはさまざまな葛藤と行動によって成り立つもので、生半可な気持ちで得られるものではないな、と感じました。
さまざまな葛藤が垣間見えるお話だったにもかかわらず、インタビューは終始、にこやか。私だったら怯んでしまいそうなエピソードも軽々と乗り越えたかのようにお話してくださいました。阿南さんの前に広がる未来はどんな規模なんだろう。阿南さんにすっかり魅了されたインタビューでした。(ライター・笠井)

 

 

<文:笠井ゆかり>


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