「どんなときも希望はある」 横山 光恒


              「どんなときも希望はある」 横山 光恒

今回は、日本対がん協会「がんサバイバー・クラブ」マネジャー、横山光恒さんをお招きしました。家族のために昼夜問わず働いていた36歳の夏、希少がんの成人ユーイング肉腫を発症した横山さん。「生きて退院できないかもしれない」という恐怖のなか、襲いかかってきたのは治療の辛さ、そして孤独と金銭的な不安でした。さらに、職場復帰後はリンパ浮腫を発症し、がんを理由に退職勧奨を受けてしまいます。
これまで何度も絶望に襲われましたが、いまは「どんなときにも希望はある」と、にこやかな表情で当時を振り返ります。横山さんに生きる希望を与えてくれたのは、何だったのでしょうか。

enStylers:リンパ浮腫とともに、自分らしくstyleをもって生きるひとたち

 

一家の大黒柱に「がん」が

encyclo Style 編集部(以下、編集部)

がんが見つかる前は、どのような生活を送っていたのでしょうか? 

 

横山光恒(以下、横山) 

病院の電子カルテ関連のSEをしていました。「家族のために、自分がお金を稼がないと」と、昼夜問わず、土日も仕事をしていましたね。会社に寝泊まりするくらい多忙でしたが、仕事は好きでした。苦労して導入したシステムが無事稼働したときの感動に、すっかりやみつきになっていたんです。 

 

仕事に夢中になっていた会社員時代。
車に寝泊まりしたり、毎日がキャンプのようだった。

 

 

編集部

多忙ながらも、お仕事にやりがいを感じていたのですね。そんななか、がんが見つかったと。  

 

横山

がんは、36歳のときに見つかりました。右脇下にあった小さなしこりが、半年でこぶし大になって。痛くなかったので放っていたんですが、ある日、突然強い痛みを感じたので、近所の総合病院に行きました。翌日、検査結果を聞きに行ったら、診察室に腫瘍の写真が貼られていて。その瞬間、指先から凍るように冷たくなっていったのを覚えています。素人目にも「これはやばい病気だ」と感じたんですよね。  

すぐに勧められた大学病院に行くと、医師から「命に関わる状態です。右腕を切断しましょう」と言われました。妻は医師から、「ご主人は、生きて退院できないかもしれない」と、はっきり言われたそうです。 

帰宅して、子どもたちの寝顔を眺めていると、泣けてきて。「この子たちが大人になるまで、一緒にいられないのか」と、タオルが絞れるほどの涙が出ました。それまで仕事人間だったので、公園すら連れて行ってあげられなかった。だから、告知から入院までの1週間、とにかく思い出を残そうと、水族館なんかに毎日出かけましたね。  

 

 

辛い治療と孤独

編集部

希少がんの成人ユーイング肉腫は、他のがんや病気と比べても情報が少なく、なおさら不安だったのではないでしょうか。 

 

横山

成人ユーイング肉腫は、日本での年間発症数100例未満の希少がんです。全く同じ状況の患者さんを探してもなかなか見つかりません。少しでも情報を得ようと、入院中もパソコンで闘病記を検索しましたが、ある日を境に更新が途絶えているものばかりで、余計に不安になりましたね。 

 

編集部

治療はどのようなものだったのでしょうか。 

 

横山

抗がん剤治療に放射線治療、手術と、三大治療は全て経験しました。告知当初は、右腕を切断するよう勧められたのですが、想定より抗がん剤が効いたので、切断は免れました。 

ただ、治療中は副作用はもちろん、面会謝絶で誰にも会えず、本当に辛かった。あと、300日間の入院で治療費がかさみ、家族とたくさん喧嘩もしましたね。「治療をやめて、家族に生命保険金を受け取ってもらう方がいいのかな」と、思うこともありました。  

何とか退院できたものの、治療の辛さと孤独に追い詰められてしまい、「この先、どうせ長く生きられないなら、せめて子どもたちにお金を残そう」と、思っていました。 

 

面会謝絶の入院をようやく終え、退院した時に子どもと。

 

 

生きていてもいいんだ

編集部

「どうせ助からない」という思いは、その後どこかで変化したのでしょうか。  

 

横山

入院中、心身共に追い詰められているときに、インターネットでリレー・フォー・ライフ(以下、RFL:がん征圧を目指すチャリティ活動)の存在を知りました。いきいきと参加されているがん患者の姿を見て、「この人たちに会ってみたい」と強く思いましたね。  

退院3ヶ月後、念願叶ってRFLに参加でき、がん経験者がトラックを歩く「サバイバーズウォーク」に参加しました。見守る方々から「おめでとう」「頑張ったね」と、声をかけてもらい、そのときはじめて「がんになったけど、生きていていいんだ」と思えたんです。 

 

編集部

RFLをきっかけに、がんとの向き合い方が変わったのですね。 

 

横山

そうですね。RFLで出会った終末期の方々の多くが、「RFLを今後も続けて欲しい」と話されていました。そういった先輩たちを天国へ見送るなかで、「先輩たちが紡いできたRFLの取り組みを、次世代につなげたい」と思うようになったんです。そして、子どもたちにもお金だけでなく、この取り組みを通して、父としての生き様も残せるのではと考えるようになりました。 

 

念願だった地元でのRFL開催を、実行委員長として実現。
RFLの仲間は熱い気持ちを持ったすごい人が多い!

 

 

リンパ浮腫の発症

編集部

その後、2009年には実行委員長として、中部地方ではじめてのRFLを開催されたと伺っています。お仕事には、いつごろ復帰されたのでしょうか? 

 

横山

退院から4ヶ月後に復職できましたが、がんを理由に降格となったうえ、部署を転々とさせられ、徐々に職場での居場所を失っていきました。そして職場復帰からおよそ1年後に、晩期性障害(治療後の副作用・合併症)として、リンパ浮腫を発症したんです。 

手術した右腕だけが、ワイシャツが破れそうなほどむくみ、痛みも酷かったですね。歯痛のような、キーンという強い痛みが右腕に走るんです。モルヒネを打っても痛みは無くならず、部分麻酔の点滴に通ってようやく改善されました。 

むくみの対処法は分からなくて、とにかく腕を挙げて過ごしていましたが、ずっと挙げっぱなしも難しいじゃないですか。だから、色々なサポーターを試したり、自分で腕をぎゅっと絞るようにマッサージしてみたりしましたね。いろいろと試すなかで、スポーツタイプのサポーターが合うと分かって。今もサポーターを着けながら、なるべく肘を心臓より下げないよう気を付けています。 

 

愛用しているスポーツ用のサポーター。
黒色を選ぶと汚れも目立ちにくく◎。
圧迫され過ぎず、緩すぎずの絶妙な感じが自分に合っている。

 

 

編集部

横山さんがリンパ浮腫を発症された15年ほど前は、今よりもリンパ浮腫の治療法が少なかったのでしょうか? 

 

横山

治療法というより、病院に相談しても「命が助かったんだから、それくらい我慢しなさい」って感じでしたね。がん治療後のQOL(Quolity Of Life:生活の質)向上のための相談は、取り合ってもらえない雰囲気でした。 

 

編集部

治療というより、自己流でむくみに対処しなくてはならなかったのですね。さらに、リンパ浮腫の当事者の大半が女性のなか、横山さんは同じ状態で悩む仲間を見つけづらかったのではないでしょうか?  

 

横山

男性のリンパ浮腫の方にはお会いしないですね。もしかしたら男性の場合、多少むくんでも見た目がそんなに変わらなければ、発症していることに気付いていない人もいるかもしれないですね。 

私の場合、リンパ浮腫を発症した時期に、がん患者支援のNPO法人(がんサポートセンター)の副理事長として、運営のお手伝いを始めたんです。年300回もの患者サロンを開催していたので、がん仲間がすごく増えました。 

出会った方のなかにはリンパ浮腫で悩む方も多く、不思議と性別関係なく悩みや情報を共有できたので、孤独を感じることはありませんでした。同じ悩みを持つ仲間から、「今は、リンパ浮腫の検査や手術ができるよ」と聞いて、安心しましたね。同じ症状や悩みを持つ人と話すのは大切だなと感じます。 

 

 

がん患者とその家族を支える

編集部

リンパ浮腫とお仕事の両立は、どのようにされていたのでしょうか。 

 

横山

部分麻酔の点滴に通っていたころは、月3日しか出社できなくなっていました。その後、症状は落ち着いたものの、会社から「もう君の居場所はない」と、退職勧奨を受けてしまい、ほぼ会社都合の形で退職することになってしまって。 

マイホームのための貯金はがんの治療で使い果たしたのに、無職になって、子どもを抱えながら、「明日どうやって生きるか」という、本当に絶望的な状況でした。「生命保険に入っているのに、自分が生きているばかりに家族に辛い思いをさせて、何をしているんだろう」と思いましたし、「がんの告知を受けたときの怖さ」以上に、「がんになったのに、生かされている怖さ」を強く感じました。あのとき感じた怖さは、今でも忘れられないです。 

とにかく、何とかしないと家族が生きていけません。今まで培ってきたSEとしての技術で、昔の仕事仲間から仕事をもらえないかお願いして回り、どうにか食いつなぎました。6年ほど経って、ようやく仕事を軌道に乗せたころ、公益財団法人日本対がん協会から声をかけていただき今の仕事を始めたんです。 

 

編集部

現在は、日本対がん協会の「がんサバイバー・クラブ」のマネジャーとして従事されていると伺っています。具体的に、どのような活動をされているのでしょうか。 

 

横山

がん患者とご家族の支援を目的に、WEBでの情報公開やイベント企画・開催をおこなっており、なかでも、私は患者家族の支援活動を専門に活動しています。まだ仕送りが必要な大学生の息子もいるので、頑張っていますよ。 

 

編集部

今後、横山さんがやりたい活動はありますか? 

 

横山

がんで会社を退職したとき、「いつか、がんになっても働き続けられる環境を作りたい」と思ったんです。それで、「『株式会社がん患者』という会社を作りたいね」と、仲間たちと話しています。名前、ストレート過ぎますかね? 

株式会社がん患者の入社条件は、がんになった人です。雇用が難しい方々を集めて、それぞれのスキルが活かせる仕事を受けます。がん患者にも、さまざまな分野に精通した方が多いんですよ。 

個人的には「がん患者だから、手厚くサポートしよう」と、一律に特別視するのは違うと考えているんです。がんになる前に真面目に仕事をしてきた人にこそ、培ってきたスキルを活かしてもらえるよう手助けしたいですね。 

 

 

リンパ浮腫も、がんも個性に

編集部

リンパ浮腫やがんとの向き合い方について、同じ悩みを抱える人に伝えたいことはありますか? 

 

横山

リンパ浮腫も、がん患者だということも、これからずっとつき合っていかなければなりません。だから、個性だと捉えるのが一番だと思っています。「腰が痛い」とか、誰にだってイマイチなところってありますよね。 

あとは、考え込まない癖を付けることです。「今日もむくみが酷いな」と、意識し過ぎると気持ちが行き詰まってしまうので、深く考えない。そしてやっぱり私自身は、NPOの活動や今の仕事を通して、たくさんのがん仲間がいることが支えになっています。 

 

編集部

今まで何度も窮地に立たされた横山さんですが、諦めずに「生きよう」と歩んでこられた原動力は、何だったのでしょうか? 

 

横山

私は「生きようとした」のではなく、「生かされてしまった」んです。がん治療中も、お金のことを考えると、治療を続けるべきか悩みました。でも、治療を終えて、生かされてしまった。「生かされているのって辛いなぁ」と、思うときだってあります。 

今も、自分が生かされている意味を考え続ける毎日ですが、多くのがん仲間を失うなかで、彼らから預かった「生きる希望」を次世代につなげたいと、それだけは強く思っています。今まで辛いことも、絶望することも、たくさん経験しましたが、「どんな状況でも必ず希望はある」と、がんの先輩や仲間たちが教えてくれました。 

今後も、先輩や仲間たちに恥ずかしくない生き方をしたいですね。そうじゃないと彼らに顔向けできないですよ。そして、そんな生き様を、これからも自分の子どもたちに見せていきたいですね。 

 

 

Editor‘s Comment

インタビュー中に取材側が言葉を失う時間もあったほど、幾度となく壮絶な経験をされた横山さん。印象的だったのは、辛く苦しいエピソードも、にこやかに、そして時折笑いを織り交ぜながら話してくださった姿でした。
横山さんのそばに常に仲間がいるのも、そんな穏やかで思慮深い人柄が、周囲を惹き付けているのだろうなと感じました。 (ライター・笠井)

 

 

<文:笠井ゆかり>


古い記事 新しい記事